swiMeの起業

30代ITエンジニアの退職から起業までの試行錯誤

社会起業大学  初期(さて何をやるかな)

 
社会起業大学を無事に卒業したのでこれまでの半年間(2019年4月~9月)を振り返ってみます。

初期(さて何をやるかな)
中期(どう進めればいいの?)
後期(やっぱりこれだね)

今回は初期編です。

社会起業大学で自分のやりたいことを明確にしたい。
最初はぼんやり「育てる」というキーワードをもって入学した。

 

swime.hatenablog.com

 

最初の授業 


自分の人生の棚卸ワークだった。
自分の感情が高まるピークはいつだったのかそしてその時に何を考え何をやっていたのか
それを人生の年表に刻んでいく。
完成したものを見たとき、1番感情が高まっていたのは大学生の時だった。
感情の高まりの要素は1つだけ 「陸上競技」だ。
思い返せば私は小さい頃から人より速く走れた(短距離)。
中学に入り、当たり前のように陸上部に入りそれなりの成績を残した。(といっても県大会レベル)
ただ高校の時は家が高校から遠いという理由で陸上部には入らなかった。(それが今一番の後悔だ。)

大学時代の陸上の記憶


私は大学に入り、再び陸上部に所属し短距離(100m)を専門とした。
ただ高校時代のブランクは予想以上に大きく、大会の予選でも周りに勝てなくなっていた。
また大学1年の時の授業、部活、深夜のバイトの大変さもあり、
次第になんで走っているのかがわからなくなった。
練習には参加はするがやるきのない部員と周りからは見られ
実際にもっとやる気をだせと先輩から言われた。


2年になっても相変わらず勝てなかった。それでもあまり気にしていなかった。
たぶんこのままな感じで4年間が終わるんだろうなと思っていたと思う。
そんな2年の秋ごろに関東インカレ(大学選手権)の補助員(雑務の手伝い)の役割が回ってきた。
正直「なんで自分?やりたくない」と思いつつ、渋々横浜に行ったのを覚えている。
スターティングブロックの準備、スタートピストルの補助、ハードルの配置等
だらだらとこなす。
選手など全く興味がなかった。早く帰りたい・・・
そんな時、一緒に補助員をやっていた友達が審判のおじいさんと話しているのが聞こえた。

審判「君たちもここに出れるように頑張りなよ。陸上は練習した分だけ早くなるんだから」
友達「そうですね」
励ましの言葉!?

ただ当時大変ひねくれものの私にはこう聞こえた。
審判「君たちはここにでる資格はもっていないけどね やっぱり才能なのかね」

私「はぁ(怒) じじい なめんなよ! やってやるよ」

ということは一切口にせず
ただおじいさんをにらむ。
身に覚えない怒りの矛先を感じるおじいさん。

それから気が狂ったようにどうすれば速く走れるのか研究した。
コーチもいない弱小大学の陸上部 練習量も多くない。
同じことをしていても絶対に速くならない。

当時(2000年)の世界最速はモーリス・グリーンという選手だった。
今とは違いインターネット上の情報はかなり少なかった。
それでもモーリス・グリーンの情報をもとに理想の走り方を追求した。
練習中はもちろん歩いている時、バイトしている時、授業中と常に走ることしか
考えていなかったw
真冬のグランドでただただ一人で走ることもあった。
しーんとしてとても集中できた記憶がある。

また今となってはメジャーとなっているが
加圧トレーニングの考案者のところへ行き、加圧トレーニングも取り入れて実施した。

これがその時の加圧トレーニングの器具 
「筋力アップクン」(ネーミングセンスなしw 279番目だったのか)

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筋力アップクン

それから1年後、私は大学4年の時に関東インカレの100m走出場を果たした。

話は授業に戻る


こういった記憶と感情がその授業の時にたくさん浮かんできた。
そこでやっぱり自分は「走る」ことが大好きなんだなということに気づく。
また
たまたま近所の子供たちに走り方を教えたとき、
子供たちが楽しそうにしていて、「私、陸上やろうかな」といってくれたことも
思い出した。うれしかった。

こんな自分でも子供たちのやる気を引き出すことができる。
そしてこれは子供たちの未来を「育てる」ということにもつながっている。


また次回。
中期(どう進めればいいの?)